アントニ・ガウディは生涯を通して自然をよく観察して常に形の理論を探し、その力を建築に役立てました。
直感的でありながら、熟考し、頑なで完璧主義。偉大な改革者のスピリットを持っていました。
«偉大な手本は洗練された知識と力を駆使してきた者たちだ。»
«考えや行動を変えることで自らが補足し修正しなければならない。»Byアントニ・ガウディ
年表
1852
誕生
アントニ・ガウディ・イ・コルネットは6月25日にフランセスク・ガウディ・イ・セラとアントニア・コルネット・イ・ベルトランの間に生まれました。翌日にはレウスの聖ペラ教会で洗礼を受け、幼少期をこの町で過ごしました。
同夫婦には5人の子供ができました。ロサ、マリア、フランセスク、フランセスク(長男がすぐ亡くなってしまったので同じ名前で洗礼しました)、そしてアントニです。その中で35年以上生きれたのは、ガウディだけでした。
1860
学業
バランゲーの小学校(レウス)で勉強し始めました。1863年にはレウスのピアリスト会の高校に入学。
バランゲー先生は親友であり、共作者であるフランセスク・バランゲー・イ・メストラスの父でした。中学校では始めのうちは成績が悪かったのですが、幾何学、算術、物体の授業で頭角を現していきました。伝統的で宗教的、人文学的な教育を受けました。
1867
『アルレキン』のイラスト
15歳のとき、手書きの雑誌 『 El Arlequín』のイラストを描きました。
この雑誌は各12冊、10号まで発行しました。
1869
バルセロナへ転居
17歳の時家族とともにバルセロナへ転居し、中等教育学校に入学しました。
物理や歴史の授業を受け、バルセロナ大学の科学学科に登録し、県立建築学校に入学するための準備として学業に励みました。当時はサンタ・マリア・デル・マル教会の前のモンカダ広場12番地に兄フランセスクと暮らしていました。
1870
ポブレットの修道院の修復プロジェクト
学校の同級生だったエドゥアル・トダ・イ・グエルやジュゼップ・リベラとともにポブレットの聖母マリア修道院(コンカ・ダ・バルバラ)の修復プロジェクトを考案しました。
それまで修道院は放置されており、保存状態が非常に悪かったのです。
1873
シウダデーリャ公園のプロジェクト、バルセロナ
学費を払うためにジュゼップ・フォンザレの傑作のデッサンを描きました。
当時シウダデーリャ公園の都市化の仕事を請け負っており、公園周囲の柵や滝のモニュメント、カルラス・アリバウのモニュメントの欄干、貯水槽に携わりました。彼の仕事は1878年まで続きました。
1873
レウスでの記録
ガウディがファイルに保存していたメモやコメントなどです。
またバルセロナ県立建築学校の入学のための準備をしていた頃のデッサンもいくつかあります。日記のように書かれており、家柄についてや装飾芸術、仕事、教授との関係についても記載され、1877年に行われた学校の初めてのプロモーションで建築家たちと祝った昼食についてのメモで終わっています。
1873
県立建築学校での勉強
県立建築学校に入学のための準備コースを始めました。1875年に同コースに合格しました。
学生時代に特筆すべきプロジェクトは墓地の門(1875年)と埠頭(1876年)です。
1875
学生時代のプロジェクト
バルセロナの県立建築学校の課題で様々なプロジェクトを考案しました。
シウダデーリャ公園の貯水槽の計算(1875年)やバルセロナの病院プロジェクト(1876〜1877年)、フィラデルフィア万博におけるスペインパビリオンのプロジェクト(1876年)、カタルーニャ広場の噴水(1877年)などです。卒業前最後のプロジェクト大学の講堂計画(1877年)でした。
1876
アントニア・コルネット・イ・ベルトランの死去
彼の母が亡くなり非常に落胆しました。
1876
モンセラットの礼拝堂のためのデッサン
建築家フランセスク・ダ・パウラ・ダル・ヴィリャー・イ・ロサーノのもと、モンセラットの聖母のアプスと壁龕のデッサンを描きました。
1878
建築の学位
3月15日、建築の公式な学位を取得しました。バルセロナ大学の建築学校の校長エリアス・ロジェンは卒業証書を手渡す際に次のように述べました。«卒業証書を与えた人物が狂人か天才かは時間が経ばわかるでしょう。»
1878
職業名刺
初めての仕事用の名刺には、バルセロナのカイ通り11番地の住所を記載していました。
1879
カタルーニャの科学的なハイカー協会のメンバー
4月29日にこのハイカーセンターの会員になりました。
このセンターは科学的な議論をしながら芸術的な遺産を周る文化的な遠足をする目的で3年前に作られました。
1880
工芸の展覧会
工芸の展覧会の主催委員会のメンバーでした。
展覧会は12月の間、バルセロナの職業振興会で開催されました。1881年1月、ガウディはカタルーニャ語でその展示について書いており、ラ・レナシャンサ』に2度に分けて掲載されました。
1882
建築家ジュアン・マルトレイとのコラボレーション
建築家ジュアン・マルトレイ・イ・モンテイスの助手として製図(おそらく丸天井のスケッチ)を書きました。
彼はバルセロナのカスプ通り4番にある聖心教会を建設しました。またパセッジ・ダ・サン・ジュアンにあるネオゴシック様式の聖母訪問会の教会の建設にも関わりました。
1883
ハイカーの集まり
バニュルス=シュル=メールで開かれたカタルーニャ・スペイン・フランスのハイカー達の集まりに参加しました。
6月18、19、20日に開催され、アンジェル・ギメラやナルシス・ウリェー、アルトゥール・マスリエラの作品が読まれました。参加者はペルピニャンとエルヌも訪れ、修道院で写真を撮っています。
1906
グエル公園への引っ越し。フランセスク・ガウディの死去
グエル公園のモデルハウスを購入しました。フランセスク・バランゲー・イ・メストラスによって建てられた家でした。ガウディは父親と姪とそこに引っ越しました。同年父親は93歳で亡くなりました。
1910
パリのガウディ展
国民美術界のサロンで展示されました。ガウディは展示品(複数の作品の模型、設計図、写真)の準備に建築家のジュアン・ルビオ・イ・ベイベーとフランセスク・バランゲー・イ・メストラスに協力を依頼しました。
また建築の学生だったジュアン・ボルダス・イ・サレーリャスや写真家のマス・イ・クヤスにもお願いしました。展示は4月から6月までグラン・パレにて、エウゼビ・グエルの後援で多額の資金を投資して行われました。公式コンペではなかった作品の数々がプライベートルームに展示されました。評判は非常に良かったです。
1911
マドリッドで行われた国内建築サロンへの参加
国内建築サロン(マドリッド)に、前年パリで行われたガウディ展のために作った作品を展示しました。
展示後は作品がバルセロナに戻り、サグラダ・ファミリアの作業場に設置しました。1936年の火事で多くが消失しました。
1911
初めの遺言書
マルタ熱にかかり、プッジセルダーで初めての遺言書を書きました。
1912
ロサ・エゲア・イ・ガウディの死去
ガウディの姪は36歳で亡くなりました。
この時、グエル公園に一人で残るのではなく、人生の最後を過ごすことになるサグラダ・ファミリアの作業場にこもるようになりました。
1918
エウゼビ・グエル・イ・バシグルピの死去
ガウディ庇護者でありパトロンは、71歳の時グエル公園にあるラリャルの家で亡くなりました。
1922
バルセロナにてスペイン建築会議を開催
バルセロナでスペイン建築会議が開催され、ガウディの作品、特にサグラダ・ファミリアの建設に注目が置かれました。
1926
バルセロナで事故にあい死去
6月7日、74歳の時、バイレン通りと交差するグランヴィーア・ダ・ラス・コルツ通りの角で路面電車30番に轢かれ、 重体となりました。サンタ・クレウ病院に運ばれ、3日後に亡くなりました。
彼の亡骸は多くの人々に見守られながら、サグラダ・ファミリアの聖カルメン地下礼拝堂にその月の12日に埋葬されました。
文献
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MATAMALA, J. Antonio Gaudí. Mi itinerario con el arquitecto. Barcelona: Editorial Claret, 1999.
PLA, Josep. Homenots. Barcelona: Ediciones Destino, 1969.
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RÀFOLS, J. F. Gaudí. Barcelona: Canosa, 1929; Barcelona: Aedos, 1952 i 1960.
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